伏見城のモノがあちらこちらに

 伏見城のお城の遺構が、全国のあちらこちらに、伝説のモノも含めて存在するのをご存じでしょうか。

伏見城とは、現在の京都市伏見区の地域に1600年前半まで存在していたお城で、時の権力者であった豊臣秀吉から徳川家康が居城していました。そして2003年まで営業していた模擬天守閣と小天守をモニュメントとした伏見桃山城キャスルランドの遊園地の敷地から、明治天皇の陵墓である伏見桃山陵辺りがその跡地となっています。

伏見桃山城の模擬天守・小天守

 伏見城の遺構は、伝説も含めて非常に多いのは、時の権力者であった秀吉や家康の権威を利用したくて、伏見城を構成していた建物を下賜してもらい、その権威を授かって利用しようとしたのではないかと思います。また、秀吉の京都の拠点であった聚楽第の遺構も全国で見られます。

 

 私が、インターネットで「伏見城の遺構」或いは「聚楽第の遺構」と検索したら、伏見城で約55箇所、聚楽第で約5箇所もヒットしました。

 まず、伏見城の遺構を紹介する前に、伏見城の変遷について紹介してみます。

(1)伏見城の変遷

    ①豊臣秀吉の聚楽第と初代伏見城(指月城)の廃城に伴う各種城郭建築の移築

・聚楽第

 関白豊臣秀吉の京都における居城として1587年に築城されます。その後、豊臣秀次に関白を譲位しますが、秀吉は軍事的防衛と洪  水対策の都市計画として京都周辺を囲む土塁である御土居を完成させます。しかしながら、秀吉は秀次を謀反疑惑で追放しその後に聚楽第を破却します。その破却時に、建物の一部を移築して、移築先で再利用したモノが現在もあります。

  

・初代伏見城(指月城)

 1594年に太閤となった豊臣秀吉が指月の地に新築しましたが、1596年の慶長伏見大地震で倒壊してしまいました。倒壊だけで火災がなかったようでしたので、すぐに次の木幡に築城を始めたようです。

   

 ②秀吉と徳川家康時代の二代目伏見城

・二代目伏見城(木幡城)

 1956年に地震で倒壊したものの、指月城で使える櫓や門などを移築して、早くも1597年に木幡に二代目の伏見城が完成したようです。1598年に秀吉はこの城で逝去し、家康が京都における拠点として入城しました。1600年の関ケ原合戦の際に西軍に攻められて、城を死守していた鳥居元忠らは壮絶な戦いの中で落城炎上しました。落城の際に、約200名が自刃して付いた血糊の手形や足型が残る部材を、再利用したと伝わる寺院の天井が「お城の血天井」として見ることができます。下の画像をクリックして見てください。手形や足型が良くわかります。     

 ③家康時代の三代目伏見城

  ・三代目伏見城(木幡城)

 関ケ原合戦後1603年に完成し、徳川家康は当城で将軍の宣下を受けました。更には、二代秀忠、三代家光もここで将軍宣下を受けました。しかし、駿府城が整備されて家康はそちらに居住を移すと城代が置かれ、建築もストップしました。ただ、大坂の陣で将軍徳川秀忠が参内した時には二条城を使用しましたが、居館用には伏見城が使用されたようです。1623年に廃城となり、福山城や淀城の他に他の城への移築が進みました。

(2)遺構の特徴

①秀吉時代のものは、桃山建築で華やかさ雅やかさがあり立派なものが多いです。

②徳川時代のものは、重厚で立派なものが多いです。

③他のお城へ移築した建築物には、「伏見櫓」「伏見御殿」の「伏見」の冠が施されている場合があります。また、関東で富士見櫓(富士山が眺められる櫓との名称)が訛って伏見櫓と名付けされているものもあるとか。

④御殿書院の一部の遺構が多いです。

⑤伏見城からの移築伝説が結構多く聞かれます。

⑥前述しましたが、伏見城の血糊が付いた「血天井」で有名な寺院が京都市内に多いです。

(五寺院-正伝寺、養源寺、源光庵、宝泉院、興聖寺)

(3)伏見城の遺構と謂われているお城の建物各種

 それでは、伏見城の遺構が各所へ移築されて再利用されているモノをご紹介していきます。こちらも、櫓や御殿、門や茶室などの建物が全国で活躍しています。特に、御殿の一部が各所へ移築されたり、御の一部を使用して寺院の本堂や書院を建てたりして、「伝伏見城遺構」となっていることが多いです。真偽は別にして、少しでも言い伝えられているモノまでピックアップしてみましたが、桃山時代から江戸初期にかけて建てられた伏見城の全貌を思い浮かべることができワクワク感が募ります。

 

 ①櫓

江戸城伏見櫓(東京都千代田区)

関東大震災(大正12年)で倒壊後復元

 

福山城伏見櫓(重文、広島県福山市) 伏見城の松の丸東櫓であった。

 

 

福山城月見櫓(復元、広島県福山市)明治元年に取り壊されたが外観復元

その他、伏見城櫓の移築で有名なのは、大坂城伏見櫓ですが、太平洋戦争で残念ながら消失してしまいました。

また、尼崎城の角櫓、岸和田城の二の丸北隅櫓と天守(現在のものは復興天守)も伏見櫓を移築した可能性があるとのことです。


 ②御殿・茶室・能舞台

書院(現 南禅寺金地院方丈)

(重文、京都府京都市左京区南禅寺)

桃山風の豪壮な建物、杮葺

 

 

書院(現 南禅寺金地院方丈)

上之間上段に、床・棚・付書院・帳台構えを備えた書院造り

書院(現 南禅寺小方丈)

(京都府京都市左京区南禅寺)

 虎の間の「群虎図」は狩野探幽筆

書院(現 南禅寺小方丈)

(京都府京都市左京区南禅寺)


書院(現 大通寺本堂大広間)

 (滋賀県長浜市浜町)

桃山風の建物。東本願寺にあった伏見城の遺構が大通寺へ移築。

書院(現 大通寺本堂大広間)

(滋賀県長浜市浜町) 大広間内部

車寄(現 御香宮神社拝殿)

 (京都府伏見区御香宮門前町)

桃山様式を残し豪壮華麗な姿。大手門も伏見城の遺構。更に、敷地内に伏見城の城石が残る。

伏見城の城石(現 御香宮神社境内)京都府伏見区御香宮門前町)


旧殿(現 西教寺客殿         (重文、滋賀県大津市坂本)桃山御殿と言われる。大谷吉継母が当寺へ寄進。

旧殿(現 西教寺客殿

杮葺、南面が入母屋造で北面は切妻造り

旧殿(現 西教寺客殿

各室の襖壁、障子は狩野派で描かれている。

旧殿(現 西教寺客殿


書院(現 高台寺方丈)

(京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居下る)秀吉が文禄の役後、諸大名を集めて祝宴を開いた建物。

書院(現 高台寺方丈)

内部は書院造り。傘亭と時雨亭の茶室も移築されている。(後段掲出)

客殿(現 常寂光寺本堂)

(京都府右京区小倉山町)小早川秀秋の助力により伏見城客殿の一部を移築して本堂を造営。

書院(現 神応寺本堂)

(京都府八幡市八幡)襖絵や杉戸絵に狩野山雪筆の「竹に虎、御所車」等が描写


書院玄関(現 西本願寺玄関)

(京都府下京区堀川通花屋町)桃山・江戸初期の書院造りの代表作。西本願寺には、後段掲出する能舞台や聚楽第の唐門、飛雲閣が移築されている。

書院(現 西本願寺書院)

左から白書院、能舞台、対面所の各屋根が見える。

書院(現 西本願寺書院)

鴻の間(対面所)は203畳の大広間。

書院(現 西本願寺書院)

鴻の間は非常に豪華な書院造り。


書院(現 実相寺庫裏)

 (京都府左京区上蔵町)

書院(現 実相寺方丈)

書院(現 実相寺方丈)

 狩野派の障壁画が見られる。

書院(現 平等院養林庵書院)

(京都府宇治市平等院)床の間障壁画は、雪景山水図で襖は垣に梅図で作者は狩野山雪。


書院(現 三渓園月華殿)

(重文、神奈川県横浜市中区間門町)

徳川家康が1603年将軍宣下の為に伏見城内に建てられた諸大名伺候の際の控室。

書院(現 三渓園月華殿)

当建物は、伏見城取り壊しの際に宇治茶匠の上林三入へ、更に黄檗宗三室戸寺金蔵院の客殿、大正7年には三渓園へ移築。

茶室(現 三渓園茶室春草盧)

(神奈川県横浜市中区間門町)月華殿に付随していた茶室。

茶室(現 専修寺茶室安楽庵)

(三重県津市一身田町)真宗高田派の本山で、三県最大の寺院。

 


茶室(現 高台寺傘亭)

(重文、京都府東山区下河原町通八坂鳥居下る)茅葺平屋で竹と丸木が放射状に組まれ唐笠を開けた姿に見える。北政所が移した。

茶室(現 高台寺時雨亭)重文

茅葺二階建てで、傘亭とは土間の渡り廊下で繋がる。これも利休の意匠。

 

茶室(現 松島観瀾亭 月見の御殿) (宮城県宮城郡松島高城)

伊達政宗が秀吉から拝領し、江戸品川の藩邸に移築したものを二代藩主忠宗がここ松島へ再移築。

茶室(現 松島観瀾亭 月見の御殿)素朴で明快な茶室造りで四方縁を巡らす。


茶室(現 松島観瀾亭 月見の御殿)床の間の襖絵や貼付絵は壮麗な極採色。

 

茶室(現 松島観瀾亭 月見の御殿)京間18畳2室からなり四方縁を巡らす。

能舞台(現 西本願寺南能舞台)(重文、京都府京都市下京区堀川通花屋町)


  ③門

大手門(現 御香宮神社表門)

(重文、京都府京都市伏見区御香宮門前町)三間一戸の薬医門。当神社内の拝殿も伏見城の遺構。

櫓門(現 源空寺表門)

(京都府京都市伏見区瀬戸物町)伏見城の巽櫓にあった。花頭窓付。徳川秀忠が寄進。

城門(現 月照寺山門)

(兵庫県明石市人丸町)藥医門、明石城切手門へ移築後当寺へ再移築。

城門(現 高台寺表門)

(重文、京都府京都市東山区下河原町八坂鳥居下る)両脇戸付三間一戸薬医門、現存薬医門では最大級。加藤清正が伏見城に建てたとの伝。当寺には、書院と茶室も伏見城の遺構。


城門(現 瑞宝寺公園入口門)

(兵庫県神戸市北区有馬町)銅板葺で平唐門、門扉は鉄板。

城門(現 瑞宝寺公園入口門)

蟇股に千成ひょうたんが付く

筋鉄門(現 福山城筋鉄門)

(重文、広島県福島市丸の内)脇戸付櫓門で支柱・梁・扉は揚造りで門構えが左右石垣より高い。背面は窓無し、扉に鉄帯を縦に張る。

城門(現 興正寺別院表門)

(大阪府富田林市寺内町)薬医門、京都の興正寺に寄与されたが、1788~1800年頃に別院へ移築。


城門(現 浄照寺表門)

(奈良県磯城郡田原本町)高麗門、当門は一旦どこかへ移築後当寺へ再移築。

唐門(現 豊国神社唐門)

(国宝、京都府京都市東山区大和大路通正面東入る)二条城から南禅寺金地院を経て当神社へ移築。

唐門(現 豊国神社唐門)

檜皮葺、前後唐破風造、側面入母屋造の向唐破風。

唐門(現 豊国神社唐門)

屋根裏に桃山様式の鶴・松・竹等の彫刻や桐紋彫刻あり。


唐門(現 西本願寺唐門)

(国宝、京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)檜皮葺、前後唐破風造、側面入母屋造の向唐破風。

唐門(現 西本願寺唐門)

屋根裏や門扉には、桃山様式の豪華絢爛な金具や彫刻がある。徳川家光が西本願寺に寄付。

牢門(現 観音寺表門)

(京都府京都市上京区七本松通出水下る)潜戸付薬医門、伝牢獄の門でこの前で百回叩いたことから「百たたきの門」と呼ばれた。

城門(現 二尊院総門)

(京都府京都市右京区嵯峨二尊院前長神町)脇戸付薬医門

 


城門(現 天龍寺勅使門)

(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)檜皮葺で切妻造。

城門(現 天龍寺勅使門)

細部に桃山様式が見られる。

不明門(現 京都洛翠の日本庭園内)(京都府京都市左京区南禅寺下河原町)

不明門(現 京都洛翠の日本庭園内)門の内部の天井に絵が描かれている。


城門(現 上御霊神社南門)

(京都府京都市上京区上御霊馬場町)

 

黒門(現 知恩院黒門)

(京都府京都市東山区知恩院)


(4)聚楽第の遺構と言われている建物

聚楽第(現 西本願寺飛雲閣)

(国宝、京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)聚楽第の一部、三層で中心がずれながら唐破風や入母屋の屋根を配し、左右非対称。1階は「舟入の間」より出入り

聚楽第(現 西本願寺飛雲閣)

2階は「歌仙の間」、3階は「摘星楼」。

三層の杮葺。

聚楽第(現 西本願寺飛雲閣)

2階は「歌仙の間」と呼ばれ三十六歌仙が障子に描かれている。

聚楽第(現 西本願寺飛雲閣)

南側興正寺より眺める。3階は宝形造り。

 


唐門(現 醍醐寺三宝院)

(国宝、京都府京都市伏見区醍醐東大路町)檜皮葺、平唐門。門扉の桟唐戸に直径3尺の太閤桐紋、左右の脇紋に大菊紋がつき桃山様式の豪華さが見れる。

裏門(現 妙覚寺大門)

(京都府京都市上京区新町通鞍馬口下る清蔵口町)切妻造り、木割の両脇戸付薬医門。

 

 

以上の他に、唐門(現 大徳寺)(京都府京都市紫野大徳寺町)も桃山様式の典型ですが、写真禁止で撮れませんでした。