上様・お殿様

 江戸時代だけを捉えると、「上様」とは大名や旗本の上に立つ幕府のトップである将軍だけが、唯一呼ばれていた名称で「公方様」とも言われました。

 

 大名などの領地の支配者は「お殿様」と呼ばれていましたが、江戸時代は旗本以上が「お殿様」と呼ばれ、御家人以下はそう呼ばないしきたりだったようです。また、知行取り(知行地持ち)か蔵米取り(お米で給与を貰う)で分ける場合や、将軍にお目見え以上とそれ以下で分ける場合があったようですが、目安では200石以上の旗本が「お殿様」と呼ばれていたようです。これらから想定すると、領地がありお城や陣屋構えをする大名、知行地があり年貢を取立てる代官所を置くような旗本が「お殿様」のようです。

 

 「金沢城の前田の殿様は100万石だった」や「ここのお城のお殿様は10万石の所領だった」とかをよく耳のすると思いますが、これは、どのくらいの年商だったのでしょうか。またどのくらいのお金をお殿様がお城で使うことができたのでしょうか。

 

(1)江戸時代の領地

  江戸時代の領地は、幕府領(天領)、大名領、大名領の飛地、旗本知行領、寺院領、公家・禁裏御料と、かなり細分化されていたうです。令制国六十余国と言われた江戸時代では、一国を完全に支配している大名もいましたが、殆どが一国を多数の大名や幕府や寺院が治めていたようです

 

 ※因みに、1867年頃幕末の現大阪府(当時は摂津、河内、和泉の3国)では、幕府直轄領、御三卿領(2家)、在地大名領(高槻、麻田、狭山、岸和田藩など6家)、大名飛地領(淀、古河、館林、小田原、加納など21家)、旗本領(76家)、宮家領家)、寺社領(51家)と約170に細分化されていました。(「大阪府の歴史」藤本篤著、山川出版社より)

 

 そしてそれぞれの領地では、法律や規則、通貨(藩札)が異なっていて、現在の世界レベルの国家と似たような構造でしたので、法な侵入や罪人の処分などを勝手にすることができませんでした。

 

 江戸時代の日本全国の総石高は、約3,000万石です。その内訳は、下記のとおりです。

 

  幕府領          400万石(全体の   13%)      

  大名領  2,500万石(全体の   75%)  

  旗本知行地領 300万石(全体の   10%)

  寺院領           40万石(全体の  1.3%)  

  公家・禁裏御料 10万石(全体の  0.3%)

 

 上記から鑑みると、徳川幕府は将軍を頂き日本国を統治しているような形を呈していましたが、実際には、日本全体の13%の収と旗本知行地領分を加算しても全体の23%でしかなく、それで全国統治する組織を維持していたことになります。

  

(2)領地の管理者

 領地の管理者とは領地を治める者で藩主(大名)を言います。今で言う司法・立法・行政を担っていました。また、領地から収入徴収し管理する者が代官です。更に、領地を細分化した地域で司法・警察の機能を担っていたのが奉行です。

 

1)大名の格付けの一つで、国主、準国主、城主、城主格、無城の区別がありました。

 ①国主

領地が令制国の一国以上かそれ相応の領地を持つ大名を言い、国持大名とも言いました。高い官位と格式が与えられまし た。外様16家と譜代2家であったようです。

 

 ②準国主

国主に準ずる格式が与えられる大名で3家であったようです。

 

 ③城主

国主と準国主以外に城を持つ大名です。

 

 ④城主格(準城主)

城を持たないが、城主と同様の待遇を受ける大名です。

 

 ⑤無城

城を持たずに陣屋住まいの小大名です。

 

2)「藩主」は参勤交代で2年に1度しか領地に戻らないし、幕府要職を務めるものは江戸在中が長くなったり、大坂城代や長崎奉  行 等の遠国奉行になると現地での勤務が必要となり、実際のところ、藩であれば「国家老」が実務統治をしていました。  「定府大名」と言って、参勤交代のない親藩(水戸藩)や譜代大名もありました。逆に、交代寄合と呼ばれる格式高い(石高が高い)旗本には、参勤交代がありました。

 

3)大名でも、各村を寄せ集めて1万石の諸侯に列した大名(大名になった)は各村に代官所を設けたり、大きな領地を持つ大名は、自分の領地の各地に陣屋或いは代官所を設けて、「代官」が村民の管理と年貢徴収を行いました。

 

4)知行地で年貢を徴収する目的ではなくて、商業地や市街地、港湾地、鉱山地などを治める場合、司法や警察の機能を持たす「奉所」に奉行が配備されました。

     

(3)領地の収入(年貢)

 石高とは

 土地の生産性を「石」という単位で表したものです。太閤検地以降に、大名や旗本の収入及び知行や軍役など諸役負担の基準とされて、所領の規模は面積ではなく石高で表記しました。

 また、農民に対する年貢も石高を元に徴収されました。面積に、石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示し、松前藩や対馬藩など米が採れない領地では、米以外の農産物や海産物も換算されました。

   

     ①石高の算定基準とは

1石(150kg)は、大人1人が1年に食べる米の量です。石高は、玄米の体積を基準に算出しますので、江戸時代には成人の大人は1日玄米5 合を食べるとして、お米で禄を貰う武士は、年間玄米1.8石(5合×360日)が扶持米として支給されました。

   

     ②表高と内高(実高)

   表高とは、幕府公認でオフィシャルになっていた石高です。 太閤検地(1598年最終)、慶長郷帳記、寛永10年巡見使、正保郷帳記、元禄郷 帳記などによって、公認化されました。

    

   内高(実高)とは、藩内で特に17世紀に進められた新田開発や、農業技術の革新による生産性の増大、特産品の税高改定などによって増大した実際の取れ高です。

 

    ③表高<内高(実高)の場合

   石高に応じた天下普請や軍役などの支出が増大するので、藩内の経済的な含みを持たすために公には隠している場合が多いようでした

 

    ④表高>内高(実高)の場合

   家格引上げを望む藩は、天下普請や軍役などが増大するものの、新田開発を行って石数が増大したと水増しを申告する場合もありました。

  ※このことを利用した下記のような事件が起きています。

 大政奉還後の明治元年の堀江藩の「万石事件」で、浜名湖畔の新田開発を行って石数が1万石以上あると虚偽申告したことが発覚して新政府から処罰を受けました。幕府は倒壊しましたが、まだ1万石以上は「諸侯に列する」大名という位置づけを得たい旗本が存在していたそうです。

 

  ⑤農産物・海産物で換算(石高算出方法)

      対馬藩、松前藩は、お米が採れない土地であったので石高がなかったですが、農産物や海産物で換算して石高を算出 していました。

 

(4)石高を貨幣価値に換算

  1石(150kg)≒1両≒10万円くらい(年代によって上下しました)。下記に色々な算定根拠を示しています。

①文化・文政時代の頃の金1両≒12.8万円、1両で米1石(150kg)を購入できました。

②現在のお米価格10kg≒5,000円位ですので、米1石(150kg)ならば7.5万円位です。

③大工賃金水準から見ると、1両≒20万円~30万円位です。

   

(5)藩の収入

  例えば、10万石の藩が、4公6民(40%の税率で藩の実収入)として現在貨幣価値に換算すれば下記のようになります。

・藩の総収入は  100億円=10万石×10万円

・藩の実収入は   40億円= 4万石×10万円

 

 藩は、実収入40億円で、藩主やその親族の生活費、藩士の費用、領地の治水工事など公共事業費用、お城の修築費用、参勤交代費用などの藩経営に必要な費用に加えて、幕府からのお手伝い普請(天下普請と言われる江戸城などの修築費、天領の治水公共事業費、徳川家菩提寺の修築費など)の費用にも充てなければならなかったようです。

 

 このように、藩主であるお殿様が実際に使えるお金は、親族全体の生活費の中からごくわずかしか使用できなかったと思われます。